名画にスープをぶっかける行為はセンスのないバンダリズムだという指摘について【ニュース拾い読み】
英ロンドンのナショナル・ギャラリーで14日、化石燃料に反対する抗議者がフィンセント・ファン・ゴッホの有名な絵画「ひまわり」(1888年)にスープをかける出来事があった。
環境活動団体「ジャスト・ストップ・オイル」に所属する女性2人が、ハインツのトマトスープ2缶の中身をゴッホの絵にぶちまけた。同団体によると、この絵の推定価値は8420万ドル(約125億3000万円)に上る。
ゴッホのひまわりという絵画については、
「取引価格が桁違い」ということで
有名であったりします。
今回、被害に遭ったのはロンドンのナショナル・ギャラリー収蔵の
ひまわりが15本描かれているもの。
同じく15本のひまわりが描かれたゴッホのひまわりでは、
1987年に安田火災海上(現・損害保険ジャパン)が
ロンドンのクリスティーズで落札したものが知られています。
落札金額は2250万ポンド、当時のレートで
約53億円と言われて、公開されたときには
大行列ができたことが話題にもなりました。
つまり、このニュース・セレクションのポイントは、
数十億円もの価値のあるアート作品を「汚す」ことで
なにか(そのアートに関する主張ではない)主張を
しようとした、ということになります。
なお、絵画への被害については、
展示しているナショナル・ギャラリーによれば
「額縁に軽微な損傷があったものの絵自体は無事」
ということです。
絵はガラスに覆われていて、通常の展示による
環境の影響を軽減する措置が施されていたことが
今回の直接の被害を免れたことにもつながっていたと
考えられます。
ということは、抗議活動と称してこの行為を実施した
当事者や当事団体はそのことを知っていたうえでのこと
だったことが想像できます。
つまり、絵画の価値を毀損することが目的ではなく、
話題づくりだったという言い訳が最初から
用意されていたのではないか、ということ。
まぁ、百歩譲ってそうだったとしても、
許される行為ではありませんが。。。
実は、アート界ではこのように破壊を目的とした
創作活動がある、ということを知りました。
バンダリズムというのですが、「公共または私有財産を
故意に破壊する行動主義」という定義がされているもので、
いわゆる「落書きアート」なんかが代表的ですね。
そのほか、アジアの例では、日本の廃仏毀釈、
中国の文化大革命など。
各地の暴動で抗議先に関連のある店舗などが破壊されるのも
含まれるようです。
そこで気になったのが、この記事。
文中で、NHKによる「日本人の意識」という調査を引用。
「国民の行動が国の政治に影響を及ぼしている」という感覚について、
1949年〜53年生まれをピークにして、それ以降の世代は
どんどん低くなっていくことを指摘しています。
「政治離れ」や「社会運動嫌い」は現代の若者に限らず、
すでに50代60代から始まっていたということになります。
特に若年層ではデモに対するネガティブな評価が増え、
高年齢層が比較的好意的に受け止めているのと
対照的になっています。
こうした若年層か政治(的な活動)から
「離れざるをえない」構造的・文化的要因について、
・1970年代以降の大学学費の大幅な上昇
・1990年代以降の個人化によって自分と同じ利害を他者が抱えていると感じられなくなったこと
・学校や職場の同調圧力が強まり、自分の意見を公の場で口に出しづらくなったこと
・非正規雇用の増加などで持続的に運動に係わる可能性が現実的には低くなっていること
こうした風潮は、野党が「反対ばかり言う人たち」と
みなされていて路線の変更を余儀なくされたことにも
つながっていると感じています。
ゴッホのひまわりトマト・スープ事件に関連して
このニュースが報道されたことも興味深かったです。
環境活動家としてなにかと話題になるグレタ・トゥーンベリさんが、
10月12日にドイツの公共放送のインタヴューに対して、
「すでに(原発が)稼働しているのであれば、
それを停止して石炭に変えるのは間違いだと思う」
ということがクローズアップされていました。
世界の首脳を前にしても動ぜずに
気候変動への対策を訴えてきたのが
彼女のイメージだっただけに、
「あれ?」と世界が注目したわけです。
こうした話し合いをするときに必要なのは、
どの高さの視点で意見を言っているのかということ。
俯瞰の高度と解像度を理解し、摺り合わせておかないと
水掛け論で終わる確率がかなり高くなります。
ひと言にしてしまえば、「ひまわりの絵にスープを
ぶっかけても欧州が直面するエネルギー問題は
解決しない」というで済まされてしまう話題。
俯瞰→クローズアップの倍率を変えると一部から
「日和った」などと揶揄される風潮を含めて、
考え方を変えて考えを変えていくことが求められる
政治3.0の局面を迎えているのではないでしょうか。