デモという手段について思いついたこと

今日(2023年5月19日)から広島で開催されるG7先進7カ国首脳会議を報道するニュース番組を観ていると、画面下に表示されるツイッター投稿のなかに、デモなんかよりも影響力のあるトップが広島原爆資料館を訪れるといったイベントのほうが効果がある、といった内容のものが目に止まった。

効果というのは、核兵器の抑止あるいは「核なき世界を追求(byオバマ氏)」に対するものと思われる。そしてデモの無力さも揶喩している。

しかし、それを見て、果たしてデモは無力はむしろ迷惑行為と捉えられているかもしれない)なのかということに疑問がわいたので、少し掘ってみることにした。

デモというのは、辞書にこう記されている(抜粋)。

「デモンストレーション:抗議や要求の主張を掲げて集会や行進を行い、団結の威力を示すこと。示威運動。デモ。 」(デジタル大辞林)

私がモヤッとしたのは、確かにデモにはプラカードを掲げたりシュプレヒコールしたりというイメージで、それは声なき声を広めるという初期の段階では効果があったと思う。

デモ以前でも一揆や「ええじゃないか」といった運動はあって、歴史に記される効果があったわけだけれど、それはデモに準ずる運動が辞書で言うところの“示威運動”にとどまらないものであったことに要因があったのではないかと思うのだ。

もちろん、一揆や打ち壊しのような暴力行為を伴うことによる示威はむしろ反乱や戦争と同列に論じられるべき対象であって、法治国家の民主主義的な手段としてのデモは分けて考えなければならないと思う。

そのうえで、デモの示威運動にとどまらない効果を考えてみると、参加による当時者意識がかなり大きいのではないか、ということなのだ。

その効果は、個人的体験という個々に対して大きな比重を占めるものになるわけなので、改めてデモを考え直してもいいんじゃないかと思ったことが、モヤッと思った発端にあったようた。

ただ、当然のように従来のスタイルを踏襲するだけではダメで、SNSのバズリのような、時代に合ったデモンストレーションを取り入れ(切り替えではなく)ていく必要はあるだろう。