老害がマンション管理組合運営に及ぼす影響について
老害について書かれたネット記事を読みました。
老害とは、「他人の目を気にしない、というよりもできない」ことをいうと指摘しています。
それはつまり、「ある種の人間の理想が行き着いた先」としています。
なるほど。
持論のない人間は、生きてきた意味がないという考え方に置き換えれば、わかりやすいのではないでしょうか。
生きてきた証しとして持論を展開し、その承認を強要することが老害ということになる、というわけですね。
これはどのコミュニティにおいても問題化するはずです。というか、コミュニケーションの問題なので、社会全般にありえるはず。
要するに、コミュ障。
老害の場合、それが高年齢化によって自然増することに問題があるといえるでしょう。
この記事がおもしろいと思ったのは、「老害製造装置」があるという発想でした。
その装置が、ニュータウンであり、タワーマンションであるということ。
環境が老害を助長するということでしょうね。
昭和以前を地域共同体的な生活環境の比重が大きかったとすると、個別の生活が一般化して自室内の生活以外が破綻したと見えなければ他人になにかを指摘されることがほとんどなくなったことに原因があるという指摘にも頷けるところはあります。
こうした環境の代表するのが、ニュータウンであり、タワーマンションである、と。
これはちょっと極論すぎるとは思いますが、逆に体感的には、どのマンションでも「あるある」なのではないかと思ったりします。
私の居住建物はコーポラティブハウスという名称をつけられていますが、50年前の竣工当時はその名のとおり「長屋的」な雰囲気や付き合いがあったのかもしれません。
しかし、現在はその空気感もほとんど感じられなくなり、自主管理でもなく、管理組合の運営は合理化を優先されるようになっています。
そう、その合理化に棹さそうというのもまた、老害だったりするのですが。昔はこうだった〜、とかですね。
現代は、自分が必要と思うコミュニケーションを選択して、それ以外を排除できるようになっています。これこそ、合理化ですね。
しかし、その分、唯我独尊に陥りやすいという指摘には、その可能性を常に意識しながらディスコミュニケーションのリスクへの対処を講じていく必要があるように感じます。
まとめ
マンション管理組合では、コンセンサスの醸成に対する配慮が、これまで以上に求められていると感じています。
いままではこうだった、という一方的な常識=老害を弊害として受け取らなければならなくなっている多様性のある状況では、より詳しい説明責任やエビデンスの開示といった透明性が必要です。
とにかく集まって茶飲み話で気心が知れた振りをする、という昭和的な付き合い方では解決できないし、それを許容しない人が多数派に鳴りつつあるということを意識しておくべきなのですね。